東京地方裁判所 平成9年(ワ)21361号 判決 1999年1月22日
主文
一 原告らの請求(平成八年九月二四日付け遺産分割協議を請求原因とする不動産の所有権若しくは共有持分権、または預金債権に基づく請求)を棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
理由
【事実及び理由】
第一 請求及び訴訟物
一 原告らの請求の趣旨
1 被告は原告らに対し、別紙不動産目録記載一及び二の各不動産の四分の一の持分について、平成八年九月二四日付け遺産分割を原因とするそれぞれ持分一二分の一ずつの所有権移転登記手続をせよ。
2 被告は原告らに対し、別紙不動産目録記載三の各不動産について、平成八年九月二四日付け遺産分割を原因とするそれぞれ持分三分の一ずつの所有権移転登記手続をせよ。
3 被告は原告一郎に対し、別紙不動産目録記載四の不動産について、平成八年九月二四日付け遺産分割を原因とする所有権保存登記手続をせよ。
4 原告ら及び被告が、別紙預金目録記載の各銀行の各預金口座について、それぞれ、各銀行に対し、同目録の帰属分欄記載の金額の預金返還請求権を有することを確認する。
二 訴訟物
1 請求の趣旨1ないし3は各不動産の所有権(または共有持分権)に基づく請求である。
2 請求の趣旨4は各原告に帰属する預金債権に基づく請求である。
3 なお、後記のとおり、当裁判所は、本判決の既判力による遮断効の客観的範囲は、平成八年九月二四日付け遺産分割協議を請求原因とするものに限定され、その余の請求原因に基づく所有権若しくは共有持分権または預金債権の帰属の主張は遮断されないものと判断する。
第二 事案の概要
本件は、故甲野太郎(以下「太郎」という)の共同相続人である原告らが、同じく共同相続人である被告に対し、原告らと被告間で成立した遺産分割協議に基づき、遺産である不動産について所有権移転登記手続等を求め、遺産である預金債権について返還請求権の帰属確認を求めたところ、被告が右協議について錯誤、詐欺及び強迫等の無効原因の存在を主張して争った事案である。
一 請求原因
1 原告ら及び被告の父である太郎は、平成七年一二月二二日に死亡し、その法定相続人はいずれも嫡出子である原告らと被告である。
2 別紙不動産目録記載一ないし四の各不動産及び別紙預金目録記載の預金債権(以下「本件預金債権」という)は、太郎の死亡時に太郎が有していた財産である。
3 原告ら及び被告の間で平成八年九月二四日、以下の内容を含む遺産分割協議(以下「本件遺産分割協議」という)が成立した。
(一) 原告らが、別紙不動産目録記載一ないし三の各不動産のそれぞれ三分の一の持分を取得する。
(二) 原告一郎が、別紙不動産目録記載四の不動産を取得する。
(三) 原告らと被告が、本件預金債権を別紙預金目録の帰属分欄記載のとおりに取得する。
4 被告は、平成八年九月一八日、別紙不動産目録記載一及び二の各不動産について登記名義を太郎から原告ら及び被告(持分各四分の一)に移転する旨の相続を原因とする所有権移転登記手続をした(以下これを「本件相続登記」という)。
5 別紙不動産目録記載三の各不動産については太郎名義の所有権登記がなされており、同目録記載四の不動産は未登記である。
6 被告は、原告ら主張の内容の遺産分割協議の成立を争っている。
7 原告らは、本件遺産分割協議の有効性を確認し、有効とされる場合には右分割協議により原告らに帰属した不動産の所有権移転登記手続も終えて、相続債務や相続税の支払いに備えようとする一方、本件遺産分割協議が無効とされる場合にはその時点で改めて相続問題への対処方針を検討した上で態度決定せざるを得ないと考えており、遺産分割の有効、無効を確定することを目的として、遺産分割協議のみを請求原因として、本訴に及んだものである。
二 請求原因に対する認否
請求原因事実1ないし6の事実は認める。
三 被告の主張
1 錯誤、詐欺
(一) 被告は、平成八年九月二四日、原告三郎から本件遺産分割協議が記載された協議書案(内容は別紙遺産分割協議書明細のとおり。以下「本件遺産分割協議書」という)を示され、太郎の公正証書による遺言(内容は別紙遺言書明細のとおり。以下「本件遺言」という)に従って遺産分割を行うよりも本件遣産分割協議書のほうが被告に有利である、翌日の期限までに右協議を成立させて相続税の申告をしないと税務署から莫大な罰金を課されるなどと説明されてそれを信じ、右協議書に署名押印した(但し押印は原告三郎が行った)。
(二) 本件遺産分割協議書に記載された太郎の遺産の価額は総額約一六億円であるところ、そのうち本件遺言に記載されていない遺産の価額は総額約七億円であり、価額全体の約四四パーセントを占める。本件遺言において指定された各取得額は原告ら及び被告のいずれも民法九〇〇条による相続分の範囲を超えていない。なお、原告らは太郎から不動産・非上場株式等の生前贈与を受けているほか、本件遺産分割協議書に記載のない太郎の遺産も多数存在する。
そうすると、被告は本件遺言に記載のない太郎の遺産からその民法九〇〇条による相続分である四分の一に満つるまで遺産を取得することができるはずである。しかし、本件遺産分割協議書における被告の取得分は四千数百万円に過ぎず、右相続分には到底及ばない。したがって、被告は原告三郎の誤った説明に基づき本件遺言に従って遺産分割を行うよりも本件遺産分割協議のほうが被告に有利であると誤信して右協議書に署名したのであり、そうでないことを知っていれば当然署名しなかったものであるから、この点において錯誤がある。
(三) また、相続税の申告期限までに税務署に申告する必要はあるものの、それまでに遺産分割協議が調わない場合民法九〇〇条による相続分に基づいて申告して納税すれば延滞税及び無申告加算税を課されることはない。被告は、直ちに遺産分割協議を成立させなければ莫大な罰金を課されると信じて本件遣産分割協議書に署名したのであり、そうでないことを知っていれば署名することはなかったものであるから、この点において錯誤がある。
(四) したがって、本件遺産分割協議の成立は被告の錯誤によるものであり、この錯誤は本件遺産分割協議成立に向けた被告の動機ではあるが、当然に原告らにも表示されている。そして、通常人であればこのような錯誤がなければ本件遺産分割協議を成立させることはないから、被告の錯誤は要素の錯誤である。よって、本件遺産分割協議は民法九五条により無効である。
(五) そうでないとしても、被告は原告三郎から虚偽の説明を受けてこれを真実であると誤信して本件遺産分割協議を成立させたものであり、右協議は原告三郎の詐欺により成立したものであるから、被告はその意思表示を取り消す。
2 強迫
原告三郎は、平成八年九月二三日深夜被告宅を訪問して本件遺産分割協議書を示し、被告に署名するよう迫った。被告は、既に被告代理人一瀬弁護士に遺産分割協議の件を委任しており、署名を拒否したが、原告三郎は被告宅が母子家庭であり三人の子供が二階で寝ているにもかかわらず翌二四日午前二時まで被告宅に居座り続けて大声を出すなどし、「署名するまで帰らない」などと述べて被告を威圧した。
このような威圧状態の下で、原告三郎は被告の実印を取り上げて被告の意思を無視して勝手に本件遺産分割協議書に押印し、被告に署名を強制した。
本件遺産分割協議は、前記のような原告三郎の強迫行為により被告が意思の自由を失った状態において成立したものであるから、無効である。
3 受遺者の排除
本件遺産分割協議は、本件遺言により遺贈を受けた甲野春夫ほか七名の同意なく成立させたものであり、無効である。
4 遺言執行者の存在
原告一郎は本件遺言の遺言執行者に指定されている。遺言執行者がある場合、相続人は遺言の執行を妨げる行為をすることができず、遺言書に記載された指定に従わなけれげならないが、本件遺産分割協議の中には相続人らが本件遺言の指定に反して遺産を分割するものがあり、これは相続人らが遺言の執行を妨げたものに当たるから、民法一〇一三条により無効である。
四 原告の主張
1 錯誤、詐欺について
(一) 被告の錯誤の主張は時期に遅れた攻撃防御方法であり、却下されるべきである。
(二) 原告三郎が本件遺産分割協議案を被告に勧めたのは、本件遺言によるよりもはるかに被告に有利であったからである。原告らは、被告に本件遺言に従った場合の被告の取得額は四六七万七五四四円であるとの計算を示したが、右の計算は本件遺言に係る遺言公正証書の作成に立会った税理士が右遺言に含まれない遺産について遺言に表れた太郎の意思を解釈して導いたものであり、本件遺言のみからこのような計算が行われたものではない。被告は、本件遺産分割協議成立前に既に被告代理人弁護士に遺産分割協議を委任していたのであるから、本件遺言には太郎のすべての遺産が含まれず、右遺言だけではすべての遺産を分割できるものではないことは当然に理解していたはずである。したがって、被告が本件遺言に従って遺産分割を行うよりも本件遺言分割協議の方が被告に有利であると誤信していたとの事実は否認する。
被告は、原告らとの遺産分割協議の過程において一貫して相続分ではなく手取現金額が多くなることを希望していた。民法九〇〇条による相続分に従って太郎の遺産を分割した場合、被告の取得すべき現金及び預金の額から負担すべき相続債務額及び相続税額を控除した金額はマイナス一億円余りにもなるから被告は多額の負担を強いられることになる。これに対し本件遺産分割協議に従えば、被告は約二八〇〇万円の現金を取得できることになり、被告にとってはるかに有利である(なお、相続税申告書では新治村の土地が二筆で一億三五一四万七七〇〇円と評価されているが、実際の価値は三八八万九六〇〇円に過ぎない)。したがって本件遺産分割協議は本件遺言に従った分割よりも被告に有利であるとの原告三郎の説明に誤りはなく、被告に錯誤はない。
(三) また、相続税の申告期限までに遺産分割協議が成立していない場合、遺言に記載されていない遺産については民法九〇〇条による相続分に基づいてとりあえず申告することも可能であるが、この場合未分割遺産の不動産については小規模宅地の特例による減額証価を受けられない不利益がある。したがって、申告期限までに申告しないと不利益があるとの原告三郎の説明に誤りはなく、被告に錯誤はない。
(四) よって、原告三郎の詐欺及び被告の錯誤の主張は理由がない。
2 強迫について
原告三郎は、平成八年九月二三日深夜被告宅を訪れ、被告と遺産分割協議について話し合ったが、最初の二時間はファミリーレストランでなごやかに話をした。被告は、原告三郎の説明に納得して、その後被告宅において直ちに本件遺産分割協議書に署名押印したのであり、原告三郎による威圧、強制などは全くなかった。
第三 当裁判所の判断
一 被告の錯誤について
1 原告らは、被告の錯誤の主張が時期に遅れたものであるとしてこれを却下することを求めている。
被告の錯誤の主張はいったん口頭弁論が終結された後に提出されたもので、その後再開して審理が継続したものであるから(当裁判所に顕著な事実である)、適切な時期に提出された主張であるとは言い難いものの、右提出の遅れが故意または重大な過失によるものであることを基礎付けるべき事情は認められない。よって、この点についての原告らの主張は理由がない。
2 争いのない事実、《証拠略》を総合すれば、以下の事実が認められる。
(一) 太郎は、その生前においては、菓子類の販売及びゴルフ用品販売等の事業を幅広く営み、原告らは太郎の経営する会社の役員に就任し、それぞれの立場で太郎の事業を承継していた。被告は、大学を卒業して太郎の経営する会社に勤務した後、結婚して三人の子供を儲けたが、平成七年二月に協議離婚し、いずれも未成年の三人の子供を養育していた。被告は、平成七年一〇月三〇日、太郎の経営する株式会社乙山ビルの取締役に就任した。
(二) 太郎は、昭和六一年五月二三日、本件遺言(公正証書による遺言)をした。太郎は、本件遺言から九年後の平成七年一二月二二日死亡し、相続が開始した。相続人は嫡出子である原告ら及び被告の四名であり、民法九〇〇条による相続分はいずれも四分の一であった。
原告一郎は、本件遺言に係る遺言公正証書の謄本を所持し、他の原告らにはその存在及び内容を知らせていたが、被告には平成八年八月に至るまでその存在及び内容を知らせておらず、被告は、そのころまで本件遺言の存在を知らなかった。
(三) 太郎が相続開始時に有した財産は少なくとも別紙相続財産一覧表記載のとおりであって、その価額は少なくとも一九億五〇七三万三四四二円である(不動産及び株式の評価額は後記小規模宅地の特例による評価減を除き相続税申告書乙二二号証による。ただし一部算定不能部分を除いた額である)。なお、原告らは別紙相続財産一覧表符号2の土地(新治村)の評価額は相続税申告書に記載のある金額よりも低額であると主張してこれを争うが、これについて右申告書における評価額と異なる評価をすべき事情は認められない。
そのほか、原告ら各自は、太郎から民法九〇三条所定の生計の資本としての生前贈与を受けている。例えば、原告一郎は、昭和五七年及び昭和五八年ころ、太郎から板橋区《番地略》所在の土地の共有持分を贈与され、さらに昭和六二年ころには、同人から同所所在の建物の共有持分の贈与を受けた。また、原告三郎は平成五年ころ、太郎から乙山株式会社の株式五〇株の贈与を受けた。被告も生計の資本としての生前贈与を受けているが、その価額は、原告ら各自と比べると相当程度低いものである。
太郎が相続開始時に有した債務は以下のとおり合計四億〇九一五万三三一九円であり、太郎の葬儀に要した費用は合計一九三九万三〇〇四円であって、両者の合計額は四億二八五四万六三二三円である。
(1) 株式会社つくばパープルカントリークラブに対する債務 三億二〇五二万〇七八八円
(2) 乙山株式会社からの預かり敷金及び保証金 七五四〇万円
(3) 株式会社甲野への未払金 九〇万三〇三一円
(4) 租税債務 一二三二万九五〇〇円
太郎の前記遺産総額に係る相続税見込額は約四億円である。
なお、原告らが板橋税務署長宛に提出した相続税申告書に記載された太郎の財産の総額は約一六億円であり、別紙相続財産一覧表記載の遺産合計額とは三億円以上の差があるが、これは、小規模宅地の特例により右申告書では別紙相続財産一覧表符号4ないし6の各不動産の評価額がそれぞれ減額されていること、符号21の退職金の一部及び符号22の弔慰金は相続税課税の対象とならないことから右申告書には記載がないことによるものである。
(四) 本件遺言に記載された財産の内容及び遺産分割方法の指定の内容は別紙遺言書明細のとおりである。別紙遺言書明細に符号の付されていないものは、遺言後太郎の死亡時までの間に生前贈与などの譲渡がされたか取り壊されたもので、相続開始時に太郎が有した財産には含まれないものである。本件遺言に記載された財産のうち相続開始時に太郎が有していたものの合計額は同明細のとおり一二億一五一八万六五一六円である。そのうち、本件遺言における分割方法の指定において原告一郎が取得するとされた財産の合計額は約四億八〇〇〇万円(ただし符号17の現金及び18の預金からの指定分は除く。以下同じ)、原告二郎が取得するとされた財産の合計額は約三億四〇〇〇万円、原告三郎が取得するとされた財産の合計額は約二億九〇〇〇万円、被告が取得するとされた財産の合計額は五六万二五〇〇万円である。
そうすると、本件遺言に記載された太郎の遺産のうち被告に分割するよう指定されたものの占める割合は約〇・〇五パーセントに過ぎないことになる。
前記の太郎が相続開始時に有した財産約一九億五〇〇〇万円のうち約七億四〇〇〇万円分については、本件遺言においては、何ら触れられていない。
(五)(1) 原告らは、太郎の死亡後の平成八年の春ころから太郎の遺産分割について協議していたが、被告とは遺産分割について協議していなかった。同年八月一三日、原告ら、被告及び川口税理士が集まり、被告に本件遺言を一読する機会が与えられ、原告らの依頼により川口税理士が作成した遺産分割協議書案に基づいて遺産分割について話し合いが行われた。なお、遺産の価額は相続税申告書案における評価額を前提として協議がされたので、遺産総額は約一六億円であるという前提で話し合いが行われた。乙一三号証はこのとき原告らが提案した分割案であるが、これによると太郎の課税遺産総額のうち、被告の取得分とされていたものは預貯金の四分の一(約二四〇〇万円)、退職金等(約五〇〇万円)及び乙山ビルの株式(約五六万円)で合計約三千万円余り、被告の負担すべき相続税額は九八七万九五五二円となっている。右の分割案では、太郎の債務(葬式費用を含む)約四億二八〇〇万円は原告らが三分の一ずつ平等に負担して被告には負担させず、相続税は原告ら及び被告の各人がその遺産取得額に応じて負担することとされている。
被告は、右分割案では被告が不動産及び株式等を原告らと平等に取得することができないとして、原告らに対し兄弟間で平等な分割を行うよう要求した。
(2) 原告ら及び被告は、平成八年八月二三日に再び遺産分割について話し合いの機会を持った。原告一郎は、その際、被告に対して、太郎の遺言書に従って遺産分割した場合の分割案を川口税理士に作成してもらったとして甲一二号証を示したが、これによると、課税遺産総額約一六億円に対して、被告の取得分は退職金等(約五〇〇万円)及び甲田ビル株式(約五六万円)など合計約六〇〇万円であり、被告の負担する相続税額は一二三万四九〇〇円となっている。
また、原告らは、この日、被告の希望を入れて作成した案として、甲一三号証、乙一四号証及び乙一五号証の三種類の分割案も併せて示した。
甲一三号証は、前回原告らが提案した乙一三号証の分割案に加えて被告が株式会社甲野及び乙山株式会社の株式の各四分の一(合計約五〇〇〇万円相当)を取得できるようにしたもので、これによると被告の取得分は、課税遺産総額約一六億円に対して約八千万円であり、被告の負担する相続税額は二七一六万八七六八円となっている。
乙一四号証は、前記乙一三号証に加えて被告が退職金約六〇〇〇万円を収得できるようにしたもので、これによると被告の取得分は、課税遺産総額約一六億円に対して約九千万円であり、被告の負担すべき相続税額は約二八四〇万三七一二円となっている。
乙一五号証は、前記乙一三号証に加えて被告が台東区《番地略》の土地建物(別紙相続財産一覧表符号5及び11。課税価額二三八六万五五〇七円)を取得できるようにしたもので、これによると被告の取得分は、課税遺産総額約一六億円に対して約五千万円であり、被告の負担すべき相続税額は一八一一万二五一二円となっている。
この三種類のいずれの分割案においても、前記甲一二号証記載の分割案においても、太郎の相続債務(葬式費用を含む)約四億二〇〇〇万円は、乙一三号証に記載された前記分割案と同様に原告らが三分の一ずつ平等に負担し、被告には負担させないこととされている。
被告は、今回示されたいずれの案もなお内容が被告に不平等であるとして協議に応じなかった。
(3) 原告三郎は、平成八年八月三〇日になって、被告と会い、川口税理士が作成した「最終案」と題する書面を提示し、これまでの案の中で被告に一番有利であるとして分割協議に応じることを勧めた。右「最終案」と題する分割案では、前記乙一三号証に加えて被告の取得する預金額を約一三〇〇万円増額したもので、課税遺産総額約一六億円に対して被告の取得分は約四二〇〇万円であり、被告の負担すべき相続税額は約一五〇〇万円と記載されている。右の分割案においても、太郎の債務は原告らが平等に分割して負担し、被告には負担させないこととされている。
被告は、やはり兄弟間で平等に遺産を分割すべきであると考えていたため、協議に応じる意思はなかった。
(六) 被告は、平成八年九月一二日ころ知人から紹介を受けた被告代理人一瀬弁護士に太郎の遺産についての分割交渉を依頼した。一瀬弁護士は、とりあえず遺産である不動産のうち判明しているものについて共同相続の登記をし、本件遺言を有効と認めた場合の遺産分割の基準等についての被告に対する説明や被告との間における詳しい打ち合わせなどは相続登記完了後にすることとした。同弁護士は、同月一八日、本件相続登記手続書類を所轄法務局に提出した。法務局において登記が完了するのは右の平成八年九月一八日から一週間ほど後の予定であり、同弁護士と被告との間の打ち合わせ等もその後にされる予定であった。
(七) 平成八年八月末ころ、川口税理士は前記「最終案」にしたがって本件遺産分割協議書の案を作成し、原告らはこれに署名押印した。本件遺産分割協議書の案には、別紙物件目録記載一ないし三の不動産の持分三分の一を原告らがそれぞれ取得し、同目録記載四の建物を被告一郎が全部取得し、本件預金債権を原告らと被告が別紙預金債権目録の帰属分欄記載のとおりに取得することがそれぞれ記載されていた。
しかしながら、相続税申告期限である同年九月二四日が近づいても、被告は原告らを避けていて連絡が取りにくく被告の署名押印は得られないままであった。
原告三郎は、従前から兄弟の中でも特に被告と仲がよかったため、原告一郎及び原告二郎から本件遺産分割協議に応じるように被告を説得することを依頼され、同月二三日の仕事帰りに既に原告らが署名押印した本件遺産分割協議書の案を持参して被告宅に赴き、被告宅の前で被告の帰宅を待った。
(八) 被告は、同日午後一一時ころ帰宅し、被告宅前で原告三郎が待っていたので、原告三郎と共に近くのファミリーレストランに出かけた。原告三郎は、前記「最終案」に記載された分割協議案はこれまでの案の中で被告に最も有利な内容であること、本件遺言に従って太郎の遺産を分割すれば被告の相続できる遺産は四六〇万円程度にすぎないこと、相続税の申告期限が明日に迫っておりこれを過ぎれば数千万円の無申告加算税が課せられることなどを述べて被告に右の案による分割協議に応じるよう勧めた。
その後、原告三郎と被告は被告宅に移動し、原告三郎は被告に対する説得を続けた。被告は、当初は原告三郎の勧める分割協議に応じることにあまり乗り気ではなかったが、原告三郎は、本件遺産分割協議を断れば本件遺言に従った遺産分割をするほかないが、その場合被告の取得額は四六〇万円程度となること、本件遺産分割協議は今までの案の中で最も被告に有利であること、またこの機会を逃すと多額の無申告加算税を課されることなどを述べて被告を説得した。被告は、原告らから遺言書にしたがって遺産を分割すれば甲一二号証に記載されたとおり被告の取得額は四六〇万円程度にすぎなくなると説明されていたこと及びこの日の原告三郎の同旨の説明から、本件遺言に従って遺産の分割を行えば被告の遺産取得額はわずか四六〇万円程度にならざるを得ないものと信じるようになり、多額の無申告加算税を課せられたり、本件遺言に従った場合の不利益な分割案を受け入れる事態を避けるためやむなく本件遺産分割協議書の案に署名するに至った。
(九) 原告らは、本件遺産分割協議により取得した財産を原資として相続債務(本件遺産分割協議により原告らが各三分の一ずつ負担することと定められた)及び相続税の支払をする予定であったが、被告が右分割協議の無効を主張したので、本件遺産分割協議の有効性を確認した上、相続債務等の履行を準備することを主要な目的として、本件訴訟を提起した。
原告一郎は本件遺言において遺言執行者に指定されているが、現在のところ遺言執行者に就任することを承諾する意思を表明していない。原告らも、その余の本件遺言における受遺者も、現在のところ本件遺言における遺贈等による利益を受益する意思を表明していない。原告らは、本件遺産分割協議が無効とされた場合には、その時点で相続問題についてどのように対処するか(どのような方針で遺産分割の話し合いや審判にのぞむか。本件遺言における分割方法の指定を受け入れるか)について、改めて検討する予定である。
被告は、太郎の遺産や民法九〇三条所定の相続人に対する生計の資本としての生前贈与には、別紙相続財産一覧表記載のもののほかにも多数のものがあると主張しており、その主要なものは次のとおりである。
遺産としては、株式会社甲野の株式三一〇〇株、乙山株式会社の株式一三〇〇株、丙川工業の株式三三〇株、戊田町商栄協組に対する出資金四七万円、原告一郎に対する立替金債権一七七〇万円、被告に対する立替金債権六四八万円、その余の財産(現金を含む)七〇五〇万円、がある。
民法九〇三条所定の贈与としては、次のものがある。
株式会社甲野の株式(原告一郎に三万〇五一〇株、原告二郎に三万二〇〇〇株、原告三郎に一万八四〇〇株、被告に二四〇〇株)
乙山株式会社の株式(原告一郎に九〇一株、原告二郎に五二八株、原告三郎に二五三株)
株式会社甲田ビルの株式(被告に一九〇〇株)
東京都板橋区《番地略》所在の土地建物の共有持分(原告一郎に生前贈与)
3 前記認定事実に基づいて被告の錯誤について判断する。
(一) 太郎が相続開始時に有した財産の総額は少なくとも約一九億五〇〇〇万円であり、これについて原告ら及び被告の民法九〇〇条による相続分に従った取得額は約四憶九〇〇〇万円である。
太郎を被相続人とする相続につき、本件遺言に従った処理をする場合においても、遺産のうち本件遺言に記載のあるものは約一二億一〇〇〇万円にすぎず、残余の遺産については民法九〇〇条、九〇三条等の規定による各自の相続分に従い、遺産分割の対象となる。
この場合において、民法九〇三条によれば、遺言で特定の財産を取得するものとされた相続人の相続分はその分だけ減ぜられることになるから、原告らの相続分は大幅に減ぜられるのに対し、被告の相続分はわずかしか減ぜられないことになる。したがって、被告は少なくとも本件遺言(記載総額約一二億一〇〇〇万円)に記載のない太郎の遺産約七億四〇〇〇万円から四億九〇〇〇万円に近い額に相当する財産を取得することができる。そして、相続債務は相続人らが民法九〇〇条所定の相続分に従い承継すべきものであるから、本件遺産分割協議により相続人ら内部間においては被告が負担することを要しない(負担割合零)とされた太郎の相続債務を相続人ら内部間においても被告が平等に負担することとし(相続債務約四億二〇〇〇万円の四分の一は約一億〇五〇〇万円)、また、取得額に応じた相続税(乙二二号証の記載によれば取得額約五億円に対する相続税額は約一億二〇〇〇万円程度と認められる)を被告が負担することとしたときにも、右負担を控除した後において被告が取得することのできる財産の価額は約二億六〇〇〇万円となる。
(二) 原告らが本件遺言書に従った分割案であり原告ら側の税理士が作成したものとして被告に示した甲一二号証は、本件遺言に記載のない太郎の遺産を本件遺言において原告らが取得すべきものとされた財産の額と被告が取得すべきものとされた財産の額の比率によって分割しようとした案にすぎず、その結果、本件遺言に記載されていない遺産のほとんどを原告らが取得するという結果になっている。しかしながら、遺言に記載のない財産は民法九〇三条所定の相続分の比率により相続人ら間で分割すべきものであるから、本件においては、本件遺言に従うとしても、本件遺言に記載のない財産から被告が多額の財産を分割取得することができることは、前記認定のとおりである。したがって、原告らは、被告に甲一二号証を示すことにより、被告に対し本件遺言に従えば右遺言に記載のない遺産について被告はごくわずかしか取得することができないかの不正確な説明をして、被告にその旨の誤解を与えたものである。
被告は、被告代理人弁護士に遺産分割協議の交渉を委任していたものの、本件遺産分割協議を成立させるに当たって右弁護士から遺産分割方法について詳細なる説明を受けた事実は認められないし、被告が遺産分割について正確な知識を有していた事実も認められない。
そうすると、被告は、原告らから、本件遺言に従った場合被告の取得分は約四六〇万円にすぎず、専門家である税理士も同様のことを述べている旨の説明を受け、被告において遺産分割方法についての正確な知識もなかったため、原告らが提示する分割案は本件遺言に従った分割よりも被告に有利であり、いかなる手段に訴えてもこの案を上回る額の遺産を取得することは不可能であると信じ、その結果本件遺産分割協議に応じたものというべきであるから、被告にはこの点に錯誤がある。
(三) 被告の錯誤は、本件遺産分割協議を成立させるに至った動機の錯誤ではあるが、原告らがその提示する分割案における以上の遺産を被告が取得できないかのような説明を行ったために被告がそのような動機を抱くに至ったのであって、要するに、本件錯誤に係る被告の動機は原告らが被告に本件遺産分割協議に応じるように説得した原告らの説得内容そのものであるから、被告の右動機は当然に原告らに表示されているものというべきである。そして、被告が民法九〇三条所定の相続分に従った遺産分割を希望すれば本件遺産分割協議の内容(被告の取得額は約四二〇〇万円)よりもはるかに多くの遺産(民法九〇三条に従った場合の被告の取得額は相続債務及び相続税を控除しても少なくとも約二億六〇〇〇万円)を取得できる可能性があることを知っていた場合には、通常人であれば本件遺産分割協議に応じることはないと解されるから、被告の錯誤は本件遺産分割協議成立に向けた意思表示の要素の錯誤というべきであり、被告の錯誤によって成立した本件遺産分割協議は民法九五条により無効である。
(四) なお、原告らは、被告は手取の現金額が多くなることを希望していたところ、手取現金額を基準にすれば、本件遺産分割協議の方が民法所定の相続分によった場合よりも被告の取得する現金額は多くなり被告に有利であること、本件遺産分割協議では被告の取得する現金額を多くするために太郎の債務を相続人ら内部間においては被告に負担させないこととしていたことなどから、本件遺産分割協議は被告の希望に沿うものであり被告に錯誤はなかったと主張する。しかしながら、原告らはそもそも民法所定の相続分と比較して本件遺産分割協議案の内容を被告に説明したわけではなく、被告も両者を比較検討した結果本件遺産分割協議を選択したものではないから、原告らの主張はその前提を欠くというべきである。また被告は、遺産分割協議が行われるようになった当初から相続人間で平等な分割を行うよう要求し、原告らと同様に不動産を取得したいとの具体的な希望も述べており、その後被告代理人に遺産分割協議を委任して不動産に関して本件相続登記を了したことからして、被告が現金のみならず不動産等の他の遺産を取得することを希望していたものと認められる。
原告らは、企業経営や商取引の経験に乏しい被告が民法九〇〇条による相続分に応じた多額の相続債務及び相続税の負担を負わされた上で換価の困難な不動産や非上場株式を取得しても、相続債務及び相続税の履行に困るだけであるから、本件遺産分割協議は被告に不利益ではないと考えていたようでもある。しかしながら、被告に前記錯誤があった以上は、多額の財産を相続し多額の相続債務及び相続税も負担するという選択肢などの他の選択肢についても被告に検討させた上で、改めてどのような遺産分割協議であれば応じるのかについての決断をさせるのが相当である。したがって、本件遺産分割協議はいったん錯誤無効により御破算にすべきであるという前記結論は右の事情によって左右されるものではない。
二 本件遺産分割協議が無効であるとしても、別紙不動産目録一ないし四記載の各不動産及び本件預金債権が太郎の死亡時に太郎が有していた財産であることは当事者間に争いがないから、右財産は原告らと被告との間において遺産分割前の遺産共有状態にあることになり、右を請求原因とすれば原告らの請求を一部認容すべき場合があることになる(最高裁平成五年(オ)第九二一号同九年三月一四日第二小法廷判決・判例タイムズ九三七号一〇四頁、最高裁平成七年(オ)第一五六二号同九年七月一七日第一小法廷判決・判例タイムズ九五〇号一一三頁参照)。さらに、本訴請求に係る財産のうち本件遺言に記載のあるもの(別紙不動産目録一の2ないし4及び二の2記載の不動産並びに本件預金債権)については、本件遺産分割協議が無効とされた場合に関係者が遺言に従った受益をするのかどうかなど、本件遺言の及ぼす影響を考慮しなければならないことになる。
右の場合、一部認容すべき範囲の基準となるべき原告ら及び被告の持分は、民法九〇〇条及び九〇三条等の規定に従って算出される相続分の割合によることになる。本件においては、民法九〇三条所定の生前贈与や遺言による財産の取得が問題となるところから、右の相続分の割合は民法九〇〇条により算出される四分の一というような比較的単純な数値にはなり得ない。しかも、本件においては、相続財産の範囲、民法九〇三条所定の生前贈与に該当する財産の範囲、右各財産の価額の評価について原告らと被告との間で争いがあるので、相続分を確定するには、まず、相続財産及び生前贈与に該当する財産の範囲の確定のために多数の書証、人証を取り調べ、さらに確定された財産(非上場株式及び不動産を含む)それぞれについての価額を評価するために鑑定の方法による証拠調べを要することが見込まれ、これらの証拠調べのために多くの費用と時間を費やさざるを得ないことになる。このように、民法九〇〇条のみならず、民法九〇三条の適用も問題となる場合には、相続分の確定のための主張立証に多くの費用と時間を要することがある。
他方、原告らの本件訴訟提起の意図は、本件遺産分割協議が有効かどうかについての公権的な判断を得た上で、有効と判断されるならば同時に移転登記等の請求についても認容判決を得て直ちに相続債務の履行等の準備に入り、無効と判断されるならばそのことを前提に改めて相続問題についてどのように対処するか検討しようというものである。このような原告らが多額の費用と時間を費やさなければ遺産分割協議以外の事由を請求原因とする所有権(または共有持分権)の主張につき失権してしまうということは、原告らに無理を強いるものである。
したがって、当裁判所は、本件訴訟の既判力の遮断効の客観的範囲は平成八年九月二四日付け遺産分割協議を請求原因とするものに限定されると考え、本来は後訴裁判所が判断すべき事項ではあるが、本項において、その点の説示を付加したものである。
三 よって、その余の点について判断するまでもなく、本件遺産分割協議が有効に成立したことを請求原因とする原告らの請求はいずれも理由がない。
(裁判長裁判官 野山 宏 裁判官 坂本宗一 裁判官 新谷祐子)